Photo by Stock Birken on Unsplash
今や世界のトップブランドであるPRADA(プラダ)。
ナイロンバッグやカナパといったバッグが定番人気のアイテムなのはご存知の通り、セカンドラインのミュウミュウやプラダスポーツも不動の人気を誇ります。
男女ともにシンプルでオーソドックスなアイテムを取り揃えており、ハイブランドの中でも取り入れやすいですよね。
こんなPRADA(プラダ)はいったいどのようにして生まれ、今の地位を築き上げたのでしょうか?
多くの人々を魅了するPRADA(プラダ)の歴史、また伝統的なラグジュアリーに革新をもたらしたミウッチャプラダという女性について、迫っていきたいと思います。
目次
1913年 PRADA(プラダ)創業
PRADA(プラダ)というとその歴史を築いた人物としてミウッチャ・プラダが有名ですが、創業は彼女が登場するよりもっと前の1913年までさかのぼります。
創業者はミウッチャの祖父であるマリオ・プラダとその弟のマルティーノ・プラダの二人です。
イタリア・ミラノのビットリオ・エマヌエーレ2世ガレリアという場所で、1号店のフラテッリ・プラダをオープンさせたのが始まりです。
フラテッリとは、イタリア語で兄弟という意味を指します。
当初から、クロコダイルやパイソン、象やセイウチなど、他では扱うことのなかった珍しい素材を世界中から取り寄せ、スーツケースや旅行かばん、パーティーバッグなどを制作し、質の高い皮革製品を販売しました。
その評判の高さで上流階級や貴族に人気を博し、1919年にはイタリア王室御用達になるほどの成長ぶりを見せました。
戦時下のプラダ
開店から6年でヨーロッパ全土のセレブがプラダに通いつめるほど盛況し、まさに順風満帆。
その勢いのまま2号店をオープンさせましたが、当時は第一次大戦から第二次世界大戦の時代のさなかです。
徐々にその悪い影響は、プラダにも降りかかってきます。
第一次世界大戦から第二次世界大戦にかけての時代は、PRADA(プラダ)の高級革製品は時代にそぐわないものになっていきました。
素材を仕入れようにも戦下の混乱によって、肝心の皮革を手に入れることすら難しくなってしまいます。
新店舗オープンの計画もありましたが、既にあるミラノの店舗が爆撃されるなどの悲劇も起こり、ブランドの運営ができない時期でした。
不遇の時代が続く中、これまで兄弟手を取り合って頑張ってきましたが、弟マルティーノは政治的問題のためプラダを離れることになります。
1958年~ マリオ・プラダ死去、ブランドの低迷
その後も戦前の安定した人気と売り上げは復活させることができないまま、とうとう1958年にはマリオ・プラダが死去。
イタリア王室御用達の称号はこの頃には王政終了に伴って消滅することになり、人気や格式は以前のプラダとは程遠いものとなっていました。
マリオの死後、娘であるナンザとルイーダがプラダを引き継ぎます。
その昔は富裕層に人気を博していたプラダでしたが、時代の移り変わりやライフスタイルの変化に合わせて中流層へとターゲットを変更を行いました。
試行錯誤をするも復活を遂げるには至らず、ブランドの低迷が長く続くのです。
1978年~ ミウッチャ・プラダの革新
(出典:Apparel Web https://apparel-web.com/news/apparelweb/100385)
低迷期から脱出できないままでいたプラダに、白羽の矢を立てたのは3代目に就任したミウッチャ・プラダです。
ルイーザの娘、マリオの孫にあたる女性で、これまでファッション関係の仕事に就いた経験はありません。
経営を軌道に乗せることができずに困り果てていたルイーザは、大学を卒業したばかりの娘のミウッチャに経営を手伝うようお願いをしました。
1970年代中盤からプラダのアクセサリーのデザインを担当、プラダの経営に携わる経験を通し、ブランドへの造詣を着実に深めていくミウッチャ。
そして1978年、ミウッチャは若干29歳という若さでプラダのオーナー兼デザイナーを務めることになります。
当初から手腕を発揮していたミウッチャでしたが、彼女が注目を浴びるようになったきっかけは、あの大ヒット作のポコノを世に出したことです。
1984年 名作「ポコノ」を生み出したミウッチャ
後に夫となる、実業家のパトリッツィオ・ベルテッリは、この頃からビジネスパートナーとして「PRADA(プラダ)は新しい一歩を踏み出さなければならない」と彼女にアドバイスをしていました。
そして彼女は新しいアイデアを求めて様々な工場を見学に行った結果、見つけた素材がシリーズ名にもなっている「ポコノ」です。
ミリタリー用品に使われていたポコノは、軽量性・撥水性・耐久性の三拍子が揃っており、手触りも抜群。
ラグジュアリーとは真逆であるものの、ありきたりなラグジュアリーを打ち破る形でミウッチャはポコノを採用したのです。
普段着や様々なシーンにフィットする、実用性を重視したポコノは、ミウッチャ最大のひらめきだったともいえます。
1984年発売されたポコノは、ラグジュアリーブランドらしからぬナイロン素材を使ったバッグということで、当初の世間からの反応はいまいちでした。
受け入れられ出したのは数年後、大ヒットとなったのは90年代前半のことです。
ポコノの可能性を信じてラグジュアリーの固定概念を見事覆したミウッチャはまさにプラダの救世主でしょう。
1990年代~ プラダの成長とミュウミュウ誕生
出典:Shutterstock
ポコノの大ヒットにより、プラダは積年の思いを晴らすかのように完全復活を果たしました。
1987年、ミウッチャは長年ビジネスパートナーでもあり恋人でもあったパトリッツィオと結婚。
新作を続々と世に出し、1988年には初のプレタポルテを発表するなど、夫妻はますますプラダを急成長させていきます。
保守的なラグジュアリーを打ち破るプラダは業界でも注目を浴びるようになり、1990年代に入ると大きな展開を行いました。
まずセカンドライン「ミュウミュウ」の設立。
ちなみにミウッチャのかつてのあだ名から付けられたらしく、キュートなブランド名ですよね。
ミニマルでスタイリッシュなプラダとは違う系統で、若い女性をターゲットにしたブランドとして確立させました。
1998年には、現在もメンズを中心に大流行している「プラダスポーツ」を開始。
今でこそ、ラグジュアリーブランドとストリートの融合はよく見られますが、プラダスポーツは当時の常識から見ると革新的なコンセプトだったようです。
ポコノで定着したカジュアルやスポーティなテイストをプラダスポーツにも注ぎ込み、他にはない感性が生まれました。
もともとのミニマルさと、実用性の高さ、すべてが上手くミックスした感性が若い男性を中心に今も高い人気があります。
その後はプラダ財団の立ち上げや、数々のブランドを傘下に置いたり、またLVMHグループへの売却したりといった遍歴がありましたが、現在は腰を据えたブランド形成を行うようになりました。
まとめ
プラダの100年以上の歴史を振り返ると、逆境を大成功に導いたミウッチャ夫妻はプラダにとって非常に大きな存在でした。
2006年には、「プラダを着た悪魔」が大ヒット。
多くの人を魅了しプラダの名がより世に広まりました。
現在は救世主のポコノをカーフなどの異素材とミックスしたり、女性にはキャンバス素材のデイリーユースフルなカナパのヒットだったりと、大注目必至のプラダ。
「トレンドを追うのでなく、コンセプトを大事にする」というプラダは、媚びない独自の感性でこれからも私達を魅了していくでしょう。