ココ・シャネルの人生とは?ブランドの歴史とともに辿る

作成日:2021年07月01日
最終更新日:2021年07月12日

シャネル

シャネル ロゴ

 

 

世界を代表するラグジュアリーブランドのCHANEL(シャネル)。

 

貴族に愛され一族経営で守られてきた由緒正しき高級ブランドとは違い、天涯孤独の創業者のココ・シャネルが身一つでゼロから作り上げた珍しいブランドです。

 

また彼女自身の生涯も大変ドラマティックで、波乱万丈な人生を描いた映画、様々な書籍などがあります。

 

そのため、シャネルの歴史とココ・シャネルの人生は背中合わせで語られることが多いです。

 

そして実は近代女性のファッションの基礎は、シャネルが導いてきたといっても過言ではありません。

 

シャネルは、香水、コスメ、ツイード、スーツ、ドレス、バッグといった様々なアイテムに革命をもたらし、その新たなスタイルは今もファッションの定番として根付いています。

 

シャネルがこれほどの一流ブランドになるまで、いったいどのような歴史をたどってきたのでしょうか。

 

今回は創業者ココシャネルとブランドの歴史に迫っていきます。

シャネルの歴史年表

創業から現在に至るまでを簡潔に年表にしました。

 

その時の時代背景やファッションスタイルの変化とともにシャネルはどう歩んできたのか?ココシャネル自身の生き様が投影されたシャネルのブランドヒストリーを是非知ってみましょう。

 

1883 ガブリエル・シャネル(ココ・シャネル)がフランス・ソーミュールで生まれる。
1909 資産家エティエンヌ・バルサン、実業家アーサー・カペルの支援により女性用帽子店をオープン。
1910 シャネル1号店「シャネル・モード」 をパリのカンボン通りにオープン。
1913 フランスのリゾート地、ドーヴィルにファッションブティックをオープン。ジャージー素材を初めて女性用衣服に使用する。
1915 貴族や富裕層が集うビアリッツに本格的な店舗「メゾン・ド・クチュール」を構え、今後の成功を確信する。
1916 初のオートクチュール・コレクション。シャネル独自のジャージー素材のドレスが話題となる。
1921 シャネル初の香水「No.5」を発売。女性のための香水として大ヒットし、マリリンモンローなど有名人も愛用した。
1924 ピエール・ヴェルテメールと共に「パルファム・シャネル」を設立。香水の売り上げをさらに伸ばす。
1925 スキンケア用品の開発に取り組む。初のメイクアップコレクションを発表。
1929 マトラッセが誕生。
1939 第二次世界大戦の影響で、ほとんどの店舗の閉鎖を余儀なくされる。 委託していた香水事業はヨーロッパ、アメリカで販売されていた。
1940年代 第二次世界大戦中、シャネルは経営から事実上の引退をする。シャネルはパリ駐在のドイツ外交官と交際し諜報活動を行ったことから非難を浴びる。
 1944 ドイツ軍が降伏。シャネルはドイツのスパイ行為に関わったとして逮捕されるも、イギリス首相・チャーチルの掛け合いによりすぐに解放された。
1944~ 戦時中の政治的関与により追われる身となったシャネルはスイスへ行き、亡命生活を送る。
1954 15年の時を経て、シャネルがファッション業界へカムバック。シャネルの店舗再開、「シャネル・スーツ」など新作のショーを開催するも酷評に終わる。
1955 マトラッセのチェーンショルダーバッグを発表。女性用ショルダーバッグが浸透するきっかけとなる。
1956 パリでの散々な評価とは反対に、アメリカでは機能的なシャネルのスーツが爆発的大ヒット。カムバックから1年でシャネルは持ち直すことに成功。
1969 シャネルが日本へ進出し販売スタート。
1970 香水「No.19」を発表。
1971 30年以上住んでいたというパリのホテル「ホテル・リッツ」にて、ココ・シャネル死去。
 1970年代 ココ・シャネル亡き後、ブランドはアシスタントデザイナーやヴェルタイマー一族が関わるも低迷期に陥る。
 1978 高級既製服(プレタポルテ)のラインを設立。
  1980 シャネル日本法人設立。
 1983 カールラガーフェルドをアーティスティックディレクターに迎える。低迷期を乗り越えブランド再建を果たす。
1994 日本初のシャネル路面店が銀座にオープン。2000年代にかけて若い女性に人気を博し「シャネラー」などの流行語も生まれた。
 1998 カジュアルテイストな「トラベルライン」を発表。
 2002 香水「CHANCE」発表。
 2004 銀座にシャネルビルがオープン。
 2019 シャネルの功績者であるカールラガーフェルドが死去。
 2019 カールラガーフェルドの右腕として活躍していたデザイナー、ヴィルジニー・ヴィアールがアーティスティックディレクターに就任する。

創業者のココシャネルってどんな人?生涯を辿る

言わずと知れたシャネルの創業者【ココ・シャネル】とは一体どのような人だったのでしょうか?

 

世界的なトップメゾンとして輝かしいシャネルですが、その背景には彼女の生涯が深く関わっています。そして彼女ほど、波乱万丈な人生を歩んだブランド創業者はいないかもしれません。

 

エピソードや逸話を知れば知るほど、シャネルや彼女についての興味深さは増していくばかり。シャネルの歴史は彼女の生きた証でもあり、ココシャネルを語らずしてブランドヒストリーは語れないのです。

 

まずはココシャネルの生い立ちや人物像を深く掘り下げたいと思います。

ココ・シャネルの生い立ち

ココシャネル(本名:カブリエル・ボヌール・シャネル)は1883年にフランスのソミュール地方で生まれました。母親は死去し、父親は行商として出稼ぎに行っていたため、姉妹とともに救護院や修道院で育ったといいます。

オーバジーヌという孤児院にいた時は6年間裁縫を習い、18歳で施設を出るとお針子として働くようになりました。また、美貌を持っていた彼女は芸能にも興味を持ちキャバレーで歌うこともしばしばあったようです。

貧しく恵まれない環境で育った彼女ですが、インタビューなどで家族や自身の生い立ちについて詳しく語ることはなく、今でも出自や育ちについては謎めいています。

名だたるハイブランドの創業者たちは貴族階級の生まれが多い中、ココシャネルは孤児という恵まれない環境から一代でシャネルを世界的ブランドに成長させました。

女性の社会的地位が低かった時代に、女性ひとりでゼロから大成功をおさめたのは正に超人と言わざるを得ません。

ココ・シャネルは恋多き女性だった

「ココ・シャネルは恋多き女性だった」のイメージ画像

ココ・シャネルは生涯独身でしたが、多くの恋愛エピソードや愛人の噂があります。これらもまた後世で語り継がれる彼女のゴシップとなりました。

しかしながらこの色恋関係が、シャネルというブランドを大きく成長させたのは間違いありません。

ブランドをやっていくには人脈や資金力が不可欠です。天涯孤独ともいえる不遇の身分であった彼女。権力者やパトロンからの計らいや資金援助なくしては成功はあり得ませんでした。

とはいえ利害関係を抜きにしても、男性からの愛情が彼女に安心感をもたらしたり、仕事に対する活力となったりしたのではないでしょうか。

1909年に彼女が初めて持った帽子店「シャネル・モード」も、当時交際していた繊維業者の息子であり資産家のエルティエンヌ・バルサン、またその友人のボーイ・カペルからの資金援助により実現しました。

バルサンは彼女の芸能への夢を諦めさせファッションの才能を見出した人物で、カペルは資金援助とともに店を持つという選択肢を与えてくれた存在です。

またカペルが結婚をした後も長きに渡って関係を持っており、1919年に彼が事故死した際には現場に記念碑を依頼するほどだったようで、特別な親密さが伺い知れます。

類まれな美貌とある種の計算高さを持ちあわせていたココシャネル。多くのパトロンが彼女のスポンサーとなり、彼らから得たツテやコネによって数々のチャンスをゲットしてきたのは間違いありません。

ココ・シャネルはナチスのスパイだった?

「ココ・シャネルはナチスのスパイだった?」のイメージ画像

恋愛に溺れるあまり、それは時に彼女の人生にトラブルをもたらすこともありました。あまり知られてはいませんが、実はある男性と付き合ったことをきっかけに彼女は逮捕されてしまったのです。諸説あるスパイの話題は、公に詳細が語られることが少ないようです。

この出来事は第二次世界大戦中のこと。彼女の故郷フランスはドイツ軍の占領下におかれていた時代です。既にシャネルのブランドは、女性の為のジャージードレスのヒットや、伝説の香水「No.5」などを世に出しており、ファッションブランドとしての地位を確立。No.5はピエール・ヴェルテメール氏が設立した香水会社に製造販売権が譲渡され、シャネルの香水はアメリカでも大成功を遂げます。

そんな中、フランス・パリは第二次世界大戦に翻弄され不況にあえいでいました。シャネルの経営状況も芳しくなく、多くの店舗を占めることになります。

しかし彼女は表に出ることはないものの、シャネルへの情熱を注ぐ日々を送っていました。そしてフランスにいるドイツ軍が居住していた「ホテル・リッツ」に彼女がたまたま住んでおり、ドイツ外交官で諜報員のフォン・ディンクラーゲ男爵の愛人となります。

男爵の表向きの顔は外交官でしたが、彼にはドイツ軍情報部のスパイとして機密情報を探る任務がありました。そのためスパイ任務を円滑に、そして有利にする目的で近づいたのが、女社長として各界と人脈を持つココ・シャネルだったのです。

当時のココシャネルは、イギリス元首相のチャーチルや英国貴族などとの交友関係を持っていました。

また、ココ・シャネルも計算なしにナチスの男爵と関係を持ったわけではありません。当時世界中で売れまくっていた自身の香水「No.5」の製造販売権を持っていたユダヤ人、ヴェルテメール一族からその権利を奪うことを目論んでいたからです。

そこそこの知名度程度だったシャネルの香水は、ヴェルテメール一族によるアメリカでのマーケティングによってさらに飛ぶように売れ、ココシャネルの予想を遥か上にいく売り上げを記録していました。ヴェルタイマー一族がやり手だったのは間違いありませんが、香水事業から事実上身を引いてしまっていた彼女からすると旨味も何もなく、むしろ嵌められたとさえ感じていました。

彼女はドイツ軍の権力者であるフォン・ディンクラーゲ男爵と共に、ユダヤ人の財産を禁止する法律を利用し、ヴェルテメール一族からシャネルの香水事業を取り返せないかと画策します。このようにココシャネルとフォン・ディンクラーゲ男爵はWin-Winの関係を結び、対独協力行為を積極的に行うのです。

パリの民衆が困窮した生活を送る中、敵国ドイツの肩を持つココシャネルの行為は当然批判の的となりました。そして結果的にドイツが敗戦した後、スパイ行為や政治的関与の罪でついに逮捕をされてしまいます。

しかし逮捕されたのも束の間、即座に解放された後にすぐさまスイスで亡命生活を送るようになりました。

確定的な逮捕に至らなかったのは、自身と交友関係があったイギリス元首相チャーチルによる計らいがあったとされています。

ドイツのスパイ行為を働きながらも、目的としていた香水事業の契約奪還は果たすことができず、ヴェルテメール一族との争いはこれからも続きます。

スイス・ローザンヌでの亡命生活

「スイス・ローザンヌでの亡命生活」のイメージ画像

逃げるようにしてパリからスイスに移ったココシャネル。フランス語圏であるスイス・ローザンヌ地方での亡命生活は15年にも及びます。

ファッション業界で成功したかのように思われたシャネルでしたが、お膝元であるフランスを裏切る対独協力行為、そして逮捕により立場は一転。

デザイナーとしての活動は難しくなり、実質的に業界から退くこととなりました。

当然シャネルの勢いも落ち、取って代わるようにイヴ・サンローランやクリスチャン・ディオールといった高級メゾンが大流行するようになります。

一方スイスでは悲劇的な亡命生活かと思いきや、著名人と交流したりエステやスパに通ったりと優雅な生活を送っていました。

No.5を巡るヴェルメテール一族との決着

「No.5を巡るヴェルメテール一族との決着」のイメージ画像

この間シャネル関連の活動はというと、ヴェルメテール兄弟の香水会社「パルファム・シャネル」の権利をめぐる争いです。

シャネルのNo.5もはや世界的ベストセラーの香水として確立されており、香水事業の行く末は多少なりとも注目されていました。

長きに渡る経営権争いは法的介入をもって、1947年にやっと双方の和解が実現。

1924年にココ・シャネルとヴェルメテールとが結んだ契約でしたが、これ以降の利益(主に戦時中)9億ドルがココシャネルに渡ることになったのです。また、今後のNo.5の販売利益の2%も彼女に渡ることとなりました。

シャネルのNo.5を一大看板として世界に広めたのはヴェルメテール一族であることは間違いありませんし、彼女も少なからずそう思っていたはずでしょう。

契約見直しにあたっては、経営権や利益以外の、ココシャネルの生活や身の回りに関する面でもヴェルテメール一族からの援助が決まりました。

販売利益の2%と彼女が受けられる様々なサポートにより、なんとココシャネルは世界で最も裕福な女性として記録されたこともあります。

ココ・シャネルのカムバック

和解後のヴェルテメール一族はココシャネルの復帰を全面的に支援し、閉鎖していたパリのブティックを再開。

そして昔に制作段階だったツイードスーツを「シャネル・スーツ」として発表します。

しかし15年間もの長い間姿を消していた彼女の作品は、業界からも大衆からもすぐに評価はされませんでした。

クリスチャンディオールのニュールックファッションが大流行していたころで、若い人はシャネルを知らない人も多かったようです。

カムバック時は70歳を超え、華麗な復活を果たすことはできなかったものの、再び彼女は独自のファッションを突き詰めるようになります。

ココ・シャネルの時代が再来

「ココ・シャネルの時代が再来」のイメージ画像

出典元:https://www.vogue.co.jp

 

カムバックしたものの本国フランスでは不評に終わったコレクションは、アメリカでは新しいファッションとして好評を博します。

アメリカでは既にNo.5が知れ渡っており、さらにマリリンモンローやジャクリーン・ケネディといった著名人がシャネル製品を愛用していたことなどもあって、一躍シャネルの人気は高まりました。

女性らしいのに実用的で動きやすい、そんなシャネルのスーツはアメリカでは革命的で、1955年にモード・オスカー賞を受賞する快挙を成し遂げました。

過去の世間を騒がせたシャネルの行動の数々や恋愛に関する話なども広まりましたが、かえってこのような紆余曲折を経ての快進撃が人々の関心を惹いたのではないでしょうか。

あれだけ非難を浴びてきたココ・シャネルは、シャネルというブランドの象徴やカリスマとして認識されるようになったのです。

当たり前を覆し、女性の自立を掲げたファッションは「シャネル・ルック」と呼ばれ、マトラッセのチェーンバッグやバイカラーなどシャネルの定番を次々と生み出していきました。

ココ・シャネルの晩年

「ココ・シャネルの晩年」のイメージ画像

完全なる復活を遂げ、モードの女帝として君臨したココ・シャネル。「仕事をしないと退屈なの」と言い、住まいのホテル・リッツで数々のデザインの仕事をこなす日々でした。

女性起業家として巨万の富を得ていたココシャネルにはお金目当てで近付く者も多数いましたが、心を許せる複数の友人と散歩をしたり食事をしたりと晩年は穏やかに過ごしていたようです。

そんな暮らしをしていたとある日、ホテルで息を引き取っているココシャネルが発見されました。1971年、87歳の時でした。

ココシャネルが生前時に「ローザンヌで埋葬してほしい」と希望していたことから、彼女はスイスのローザンヌで眠っています。

シャネルのアイコンや名作の歴史

後半のここからは今でも愛されるシャネルの名作たち、シャネルから生まれたスタイルなどについての歴史をいくつか解説します。

 

ファッションにおける数々の転換期を生み出したシャネルには歴史的なエピソードが盛りだくさんです。

シャネルの香水

「シャネルの香水」のイメージ画像

シャネルの大ヒット商品といえば、香水です。シャネルの香水は前半でも触れた通り、長きに渡る利権争いがあった上で今日の知名度と評価に至ります。

また、ココシャネルが争った相手であるヴェルメテール一族は現在のシャネルの経営者でもあることから、歴史的な争いを経てもなお切っても切れない縁があったということでしょうか。

言わずと知れたシャネルの香水「No.5」は1921年に誕生しました。

マリリンモンローが愛用していたのは有名で、現在も伝説の香水としてNo.5は愛され続けています。

今でこそ香水が醸し出す匂いには様々なバリエーションがありますが、No.5が世に出る以前の香水といえば大きく分けて2種類です。

園芸花の香りか、動物系の香りであるムスクやジャスミン。前者の花の香りが香水のスタンダードとされ、後者は水商売を印象づけるものでした。

香水の研究開発も進んでいなかった中、ココ・シャネルはもっと自由な精神で楽しめる香水を作ることを決意。しかし香水の開発となると科学的分野も関わってくることから、彼女だけの力では限界があります。

そういったことから、エルネスト・ボーという調香師に依頼し、様々な香りのサンプルを作らせました。いくつものサンプルの中からココ・シャネルが選んだのは5番目の香りでした。

またその年の5月5日にドレスコレクションを発表するという数字の重なりもあって、サンプルの「No.5」という名前そのものを採用したというエピソードが残っています。ちなみに「5」は今もシャネルのラッキーナンバーとされているようです。

また匂いが飛びやすい天然香料でなく、人工香料「アルデヒト」を初めて使用したのはシャネルのNo.5です。

単調なフローラルでない、No.5をはじめ魅力的な香りが長時間持続するシャネルの香水たちは瞬く間に大ヒット。N°~表記のシリーズはもとより、2001年「ココマドモアゼル」や2003年「チャンス」といった名作が現在に至るまで生まれました。

品質の高さ、様々なコンセプトに沿ったシリーズや、スタイリッシュなボトルデザインなどは香水の歴史を変えたのです。

No.5開発に携わったエルネスト・ボーはシャネル初代の調香師で、現在は4代目調香師のオリヴィエ・ポルジュが手掛けています。

黒のファッションスタイル

「黒のファッションスタイル」のイメージ画像

出典元:https://www.elle.com/jp

 

黒のファッションと聞いて、あなたはどんなイメージを持つでしょうか?シック、シンプル、合わせやすい、などといったように、汎用性の高いカラーとして多くの人から支持されていますよね。

そういった今では常識ともいえるファッション感覚を生み出したのは、実はシャネルなのです。

1926年に発表した「リトルブラックドレス」がそのきっかけです。

黒一色のシンプルなAラインワンピースなのですが、このドレスの登場は当時の「黒は喪服の色」「華美が良いとされる」といった常識をひっくり返したものでした。

コルセットでウエストを絞り、レースやフリルのドレススタイルが主流であったのに対し、ゆとりがあり軽やかなリトルブラックドレスはフォーマルに寄りすぎない上に動きやすさも考えられていました。

戦争で男性が駆り出され、女性が社会の労働力として活躍し始めていた1900年代前半、ビジュアルを重視したコルセットは日常着としては不自由極まりないとココ・シャネルは思っていたのです。

黒をファッションカラーとして取り入れ、ゆったりとした作りながらも女性の曲線美を感じるリトルブラックドレスは多くの女性の心を掴みました。

貴族的なファッションが長く根付いていたということもあり、一部ではシャネルの新しいスタイルは品がないという声も上がっていたようです。

しかし戦後の社会様式や価値観の変化、また国を超えてアメリカのファッション誌ヴォーグで取り上げられたことで徐々に現代のファッションとしてシャネルのスタイルは認知されるようになりました。

シンプルで機能的なスタイルは、リトルブラックドレスにとどまらず他のシャネルファッションにも共通しています。ジャージー素材、パンツスタイルといった例で、女性にタブーとされていたものを自由に作り上げて世に広めました。

マトラッセの歴史

「マトラッセの歴史」のイメージ画像

シャネルと聞いて一番に思い浮かぶ「マトラッセ」。

その特徴的なキルティング素材はシャネルの象徴する存在で、1929年に誕生しました。

マトラッセという言葉は「綿詰めする」というフランス語からきています。綿が詰まった生地をひし形パターンで縫い付け、ふっくらと立体感あるデザインは見れば誰もがシャネルをイメージするはずです。

そればかりかシャネル製品でなくてもキルティングのバッグや財布が「シャネルのマトラッセ風」とも見えてしまうこともある程です。

マトラッセはシャネルで定番のデザインであり、チェーンショルダーバッグが最も代表的な人気商品です。

そして女性向け初の肩掛けバッグはシャネルのマトラッセであり、当初はチェーンでなく革のストラップが使われていました。当時ショルダーバッグは男性が使うもので女性的ではなかったようですが、その常識を変えたマトラッセのショルダーバッグは歴史的な存在でしょう。

また、キルティングはもともとは布に厚みを持たせたり丈夫にしたりといった目的で知られていました。

シャネルはそれをファッション的意味合いで、初めてファッションに取り入れたのです。

シャネルの化粧品

「シャネルの化粧品」のイメージ画像

ファッション、バッグ、香水など様々なアイテムが大人気のシャネルは、コスメティクス分野でも第一線を走り続けています。

女性の解放や自由をコンセプトとし、リアルな女性のニーズを常に考えていたココ・シャネル。

当然ながら化粧品も女性のことをしっかり考えたラインナップで、特に口紅「ルージュココ」やアイシャドウ「レキャトルオンブル」はシャネルコスメの代名詞とも言える大ヒットアイテムです。

先駆けとなったのは前述したNo.5などの香水で、その後本格的なスキンケア製品開発を経て、1927年に初めてシャネルの化粧品が発売されました。クレンジングや化粧水をはじめとし、1980年代~1990年代になると研究開発がさらに進んでエイジングケアにも力を入れるようになります。

女性の悩みやニーズに合致した高品質な製品づくりは年々進化中。

今も昔も変わらない黒と白のシンプルなボトル・ケースデザインは、伝統的なシャネルのエスプリを感じさせます。

手軽に宝石を楽しむ コスチュームジュエリー

「手軽に宝石を楽しむ コスチュームジュエリー」のイメージ画像

ファッションに彩りやアクセントを与えてくれるジュエリー・アクセサリー。フォーマルな場面はもちろん、普段着にも手軽に使えるものばかりで便利ですよね。

遡って1900年代前半ごろの宝石事情はというと、とても高価な宝石を使ったジュエリーやアクセサリーがスタンダードで、貴族や上流階級が富の象徴として身に着けるものでした。

過度に着飾ったり、富をアピールしたりという行為を嫌っていたココ・シャネル。もっと多くの人が様々なシーンで楽しめるようにと、1924年に「ビジュ・ファンデジ」ジュエリーコレクションを発表しました。

高い金や宝石であればあるほど良しとされる従来の価値観を切り捨て、デザイン性を充実させるためにイミテーションを使用した「コスチュームジュエリー」です。

ココ・シャネルのイマジネーションは、これらのコスチュームジュエリーのディティールによく表れています。安価なイミテーションのダイヤやパール、金メッキなどをふんだんに使用し、ボリューム感や存在感がたっぷり。自由度の高いデザインや加工が可能なことからシャネルらしいファッショナブルなジュエリーが出来上がります。

ジュエリー制作の本場であるフランスではジュエリーには貴族的な高級さが大事とされていたので、このような遊び心あるシャネルのコスチュームジュエリーの誕生は大変センセーショナルなものでした。

その時のコーディネートに合わせてカジュアルにジュエリーを楽しむ感覚、それをココ・シャネルは多くの女性に与えてくれたのです。この新しい価値観はヨーロッパのみならず、アメリカでもハリウッド女優がシャネルのコスチュームジュエリーを愛用するなどして人気が定着しました。

大胆でファッション性の高いコスチュームジュエリーは、ヴィンテージシャネルのアイテムとしても大人気です。

ココ・シャネルの名言

「ココ・シャネルの名言」のイメージ画像

シャネルを築き上げ、様々な歴史的ファッションスタイルを生み出してきたココ・シャネル。

 

最期にココ・シャネルの残した名言を知ってみましょう。

 

思わずはっとしたり、ポジティブになれそうなセンテンスを抜粋してご紹介します。

 

●私の人生は楽しくなかった。だから私は人生を創造したの。

 

●世の中には、お金持ちの人と豊かな人ってのがいるわ。

 

●シンプルさはすべてのエレガンスさの鍵。

 

●人生がわかるのは逆境のときよ。

 

●翼を持たずに生まれてきたのなら、翼をはやすためにどんな障害も乗り越えなさい。

 

●かけがえのない人間になるには、常に他人と違っていなくちゃ。

 

ココ・シャネルはブランド創設者としての功績だけでなく、彼女の生き方やポリシーも多くの人を惹き付けます。

 

またそれが「シャネル」自体の人気が衰えない理由でもあるでしょう。

関連アイテムの買取価格はこちら

他の人はこんな豆知識も見ています

完全無料

査定・買取のお申し込みはこちら